言葉が人を成すことについて

林修が「今でしょ」と言うと、尖った口先から出てきた「今でしょ」は既に二足歩行が可能でいて、いつの間にやらどこかへと消えてしまった様子である。

そして、そんな筈はないのに、林修は「今でしょ」と呼ばれることが多くなった。

自分は最早、消息を絶つままの「今でしょ」を、自ら探す他ない。意味段落ごとに数字を振った後、林修は訳もなくそう決意したのだ。

8つ目のお茶の間にいた「今でしょ」は、それは見るがままの「林修」であった。強いて言うならお肌が少し綺麗だったかもしれない。そのお茶の間に居合わせた専業主婦らしき女性は、ドッペルゲンガーを文字列としか認識していなかった為、二人の林修を見たとき、ドッペルゲンガーについて思いを巡らすことはなかった。

林修は多忙であり、そして狡猾である。林修は、林修の仕事を、林修2人で分担することにした。だから私達は、いまテレビに映っているのがどちらの林修であるかを理解する必要があって、そしてその割合というのは、テレビタレントとして、いや、誰にとってでも、非常に大切なことなのではないだろうか。と、僕は思うのです。

ちなみに、キングオブコントハナコに応援メッセージ送ってたのは肌の汚い方の林修で、僕は、そっちの方が良いんじゃね?と、初節句に際して思いました。

 

 

 

面白いと感じることについて

 

 マスクメロンがあるとして、するとそれ以外のもの、たとえば「お祭り」というのは、「マスクメロンでないもの」ということになる。

 私はこの「お祭り」が「マスクメロンでないもの」となる、そのスピードが好きだ。そしてなにより、マスクメロンがあったときに、「お祭りはマスクメロンでないな」と、そう思うことが好きだ。

 でも、多数の人は、マスクメロンを目にしたとき、「このマスクメロンは美味しそうだなあ」とか、「マスクメロンの甘みはこの模様の細かさで決まるんだよ」とか、そういうことを言う。

 

 

 いつのまにか舗装された道があって、なんとなくそこを歩いてしまう。右手にはメロン畑があって、左からは東京音頭が聴こえてくる。どちらにも確かな魅力を感じているのに、どうしてか、正面に望む富士山をなんということもなく見つめながら歩いている。

 何か正しいような気がして、無償で良いことのように思えてくる。富士山ってそんな感じ。

  私は小さく決心をして、音頭の聴こえる方へと足を進めてみた。ひどく遠く、でこぼことした道が続く。こういうのが楽しいと言う人がいるけれど、私は普通に辛いと感じる。でも、富士山を目指すってのも、なんかなあと、その時は思ったのだ。

 辿り着いたときには、既に秋になっていた。「山梨梨祭り」で出された梨は、どれもみずみずしくて美味しかった。私は梨が好きだから、目指していた祭りが「山梨梨祭り」であって、本当に嬉しく感じたのだ。また来よう、そう思って、私は帰路についた。

 そういえば、大会本部の人に聞いたところ、あの東京音頭は一年中流しているそうだ。とてもいいなと思ったし、すごく迷惑だなと思った。