面白いと感じることについて

 

 マスクメロンがあるとして、するとそれ以外のもの、たとえば「お祭り」というのは、「マスクメロンでないもの」ということになる。

 私はこの「お祭り」が「マスクメロンでないもの」となる、そのスピードが好きだ。そしてなにより、マスクメロンがあったときに、「お祭りはマスクメロンでないな」と、そう思うことが好きだ。

 でも、多数の人は、マスクメロンを目にしたとき、「このマスクメロンは美味しそうだなあ」とか、「マスクメロンの甘みはこの模様の細かさで決まるんだよ」とか、そういうことを言う。

 

 

 いつのまにか舗装された道があって、なんとなくそこを歩いてしまう。右手にはメロン畑があって、左からは東京音頭が聴こえてくる。どちらにも確かな魅力を感じているのに、どうしてか、正面に望む富士山をなんということもなく見つめながら歩いている。

 何か正しいような気がして、無償で良いことのように思えてくる。富士山ってそんな感じ。

  私は小さく決心をして、音頭の聴こえる方へと足を進めてみた。ひどく遠く、でこぼことした道が続く。こういうのが楽しいと言う人がいるけれど、私は普通に辛いと感じる。でも、富士山を目指すってのも、なんかなあと、その時は思ったのだ。

 辿り着いたときには、既に秋になっていた。「山梨梨祭り」で出された梨は、どれもみずみずしくて美味しかった。私は梨が好きだから、目指していた祭りが「山梨梨祭り」であって、本当に嬉しく感じたのだ。また来よう、そう思って、私は帰路についた。

 そういえば、大会本部の人に聞いたところ、あの東京音頭は一年中流しているそうだ。とてもいいなと思ったし、すごく迷惑だなと思った。